VIVA!南関東

 南関東競馬川崎に戻ってきましたね!
 さっそくきょうは、行こうかな、どうしようかな、行くかな、行くのやめるかな……たぶんおそらくきっと間違いなく行くでしょう(笑)。
 
 超基本的な英語のお話。助動詞ってありますよね。そりゃみなさん、知ってますよね? 当然。 「may」「can」「must」、そう、そうです。そういうやつです。もちろんほかにもあります。
 日本の学校英語教育では、(すくなくとも僕らの時代は)「may=かもしれない」「can=できる、ありうる」「must=間違いなくある」という感じで日本語の文に直接当てはめて教えられましたよね。こういう単語はこう訳すんだ、と言わんばかりに。
 でも中学校か高校かいつの頃からかは忘れたけれど、この教え方はよくないと僕はずっと思ってきました。たとえば可能性を表す助動詞は、日本語に訳すとこうなるではなくて、これから起こる出来事の可能性の度合いとして感覚的に教えるほうがいいんだと思います(そのサポートとして日本語訳を使うということ。メインではなくね)。つまり、上に挙げたうちでいちばん可能性が低いのがmay、それより可能性が高くなるとcan、もっと可能性が高くなってほぼ確実になるのがmust、という具合に。可能性=実現性の強弱は意思の強弱でもありうるので、これらの助動詞は意思の強さを示す助動詞でもあるわけですね。こうして覚えると、なんとなく感覚がつかめません? willだってshallだってwouldやcouldやshouldだって、可能性の度合いでつかめますよね。(wouldやcouldやshouldなんかは単なる未来へ向けての可能性に加えて、さらに次元が交錯するおもしろさがあります)
 なんでも日本語に訳すのはよくないですよ。だって、日本語じゃなくて英語なんですから(笑)。比較的に一点を指し示しうる名詞の場合はしょうがない部分もありますが*1、動詞とか助動詞とか前置詞とか、あるいは形容詞も、それぞれの言葉にシュアな日本語を当てはめてしまうと応用が利かなくなります。僕は昔から、ひとつの単語にひとつのかっちりとした意味をはめて覚えるということを基本的にしてきませんでした。だからたとえば「have」は「持つ」ではなく、“何かを所有している状態”“何かが自分のものとして在る状態”というような感覚で覚えていました。覚えるというより、身につけるようにしてきました。いうまでもなく僕は日本ネイティブの日本人ですから、そういう感覚が元からあるわけではありません。ひとつの助動詞や動詞に出くわしたときに、その言葉と時間をかけてじっくりと向き合って、その言葉が持つ雰囲気をなんとか感じ取ろうとするわけです。接頭辞とその他の部分で作られた単語なども、接頭辞がその後ろの部分に対してどういうふうに働きかけた結果こういう意味合いとして生まれてきたのかというようなことを一生懸命考えて、感覚でつかもうとしました。こういう言い方はしたくないけど、これもいわばこどもの頃からの長い時間をかけた一種の努力です。小学校の頃から、日本語、英語を問わず、なるべく多くの言葉に、進んで触れようとしていましたから。
 こうやって覚えていると(身につけていると)、もっと広い範囲の英語が感覚で意味をつかめたりします。テストでは日本語に訳す必要があるでしょうけど、英語の原書を気軽に読むときとか(学術的な読み方の場合は事情がまた別ですけど)、ましてや英語を話す人と会話するときには、日本語に訳して考える必要なんて基本的にないわけですよね。英語は日本語ではなく、あくまでも英語なので、やっぱり英語として覚えておく(身につけておく)のがいちばんいい方法なんだと思ってます。もちろんある程度しっかりと身につけているなら、それを自分の中で別の文化=別の言語にとりあえずの形でコンバートすること=訳すことは、比較的容易です。つまり、テストでも点が取れます(笑)。(英語だけでなく日本語もしっかり身についていないといけませんが)
 
 で、冒頭の文に戻って、「たぶんおそらくきっと間違いなく」も、出来事の可能性の度合いが増えていくにつれてmay→can→mustというふうに助動詞が入れ替わっていくわけですね。その可能性の度合いの軸にはwillなんかもありうるし、異次元に交錯した状態、あるいはちょっと別の層の上で、wouldやcouldやmight、さらにhave+過去分詞なんかもありうるわけです。
 ……だからなんなんだ(笑)。昨晩からずっとしばらくぶりにビートルズを聴きつづけているので、なぜか突然英語の話になりました。寝るぞ。 (5:47)
 

*1:この言い方はちょっと難しいかも。昔なつかしいソシュールなんかで出てくる、ひとつの言葉の文化的な幅というか、価値の幅というか、それぞれの言語におけるそれぞれの言葉が持ちうる意味の幅ですね。ごく簡単にいうならば、「赤」と「red」では指し示すものの重なる部分が大きいわけだけれど、それぞれの文化的背景という素地、およびその素地の上ではぐくまれた各個人の言語感覚によって、その指し示す幅や対象は完全にイコールではないというような感じですね。ごく簡単にいうならば、ですが