正常なオブジェ

 深い地下鉄駅の長い上りエスカレーターが動かずに止まっていて、そのすぐ脇の長い階段を人々が下ってくる姿というのは、なかなかグロなものだ。
 状況としては、何一つ、誰一人、間違ってはいない。上りエスカレーターは利用者がいるときのみ自動で動き出す仕組みのもので、僕が見たその瞬間は上りの利用者が誰もいなかったのだし、下ってくる人々はそもそも上りのエスカレーターを使う必要がないのだから、すべてが破綻なく、きわめて正常な状態で進行しているわけだ。
 けれど、「何一つ、誰一人、間違ってはいない」からこそ、かえってそこには違和感というものがあった。いや違和感という言葉は違うと思う。この、長い長い上りエスカレーター。その脇の、長い長い階段を下りゆく人々。エスカレーターが無用のオブジェに見えるのかというと、べつにそういうことでもない。現代都市文明やそこで生きる人々さらにはそれを見つめる自分という存在を記号化して云々、という話でもない。
 いうなれば、もっと原初な、たとえば僕はどうして財布にお金を入れるのだろうとか、むしろそういうのに近いところもある。習慣的に洗練されたところにあるグロさが、巨大な構図で改めて存在感を問い直しているようなものだった。
 
 先月につづいて、六本木の某スタジオにてお仕事中。
 このくらいの季節になると、僕は石畳の道を歩きたくなる。
 だって、もうじきクリスマスやん。
 トリも食いたくなってきた。
 そういやことしはトリ年だったな。
 
 だからいま僕は36歳だったんだ。
 
 (18:37)