東京脱出願望

 まあ、いろんな意味で。
 
 mixiのほうにはちらっと書いたんだが、最近ネットってやつがどんどん嫌いになっていっている。べつにもともとすごい好きってワケじゃなかったけど、ほらいろいろ起こるじゃない。ネットって、仲間うちでも。そういうのが、だんだんと、イヤになってきて。ああ、上に書いた東京脱出願望と直接的には関係ないけどね。電話回線も携帯電話の電波もないところに行かないと、そんなの無縁になるのは難しいのだし
 間接的にはあるだろうけど。
 
 そのほかにも、いろいろ考えたり。
 まず、歩かないと、と。いまとにかく歩かない。ひどい日は、家の目の前にあるマルエツへの往復(何十歩だ?)しか歩かないこともある。家で仕事をしているというのは、実はかなり健康に気を使わないといけないもので、そういうことは頭ではわかっていたのだけれどなかなか実際に動いたりはしない。毎日どこかへ通勤する人ならまだ多少は動くのだろうが、ずっと家では、ねぇ
 そんなわけで、もうちょっと、いやもうかなり、歩かないといけないという考えが深刻になってきた。じいさんみたいに散歩するかというのもまあアリにはアリ。実家まで歩いて10分弱なので、毎日朝食か昼食を実家で取ることにして往復せっせと歩くというのもアリ。いずれにしても、歩くぞ、と
 それから、週に何度かのさゆ会や晩餐会その他は楽しみだからともかくとしても、それ以外の食事をできるだけ粗食にしなければ、とも思う
 栄養取りすぎなのは現代人共通の問題だろうけれど、さらに量も取りすぎている。人間、そんなに食わなくてもまともに日々を働いて過ごせることは間違いない。たくさん食べて食べ過ぎてしまうのは、一種のクセというか、思い込みというか、自律神経失調というか、余計な欲というか、まあそういうものがいろいろ絡み合った結果に頭の中へ生まれてくる腹減り妄想みたいなものが原因だろう。必要なものを、もっとゆっくりと、しっかり噛んで、時間をかけて味わって食べれば、絶対的にこれほどの量を食う必要はないはず。不要に定着してしまった不足感の慣れは、早急に解消しなければと思った。といって、ガマンするのは精神的によくない。ガマンせずとも食べ過ぎないような健康な神経に自分を育て上げていくことが、これからしばらくの課題である
 とりあえず間食はけっこう前から基本的にやめている。甘い飲み物もなるべく避けている。健康におびえているからというより、たんに自分が調子よくいきたいから。いまの体重は明らかに重すぎるし、栄養状態も偏っている。栄養状態が偏っていたら調子よくはいかないし、おいしいものもおいしく食べられないだろう。僕はもともと食べることが大好きなので、食べるということをもっと快適に楽しみたい、そういう部分もある。健康な食欲は健康な肉体に宿る、ってね。ラーメンは大好きだからやめられそうにないけど、これも現在の回数を減らすことは普通に可能だろう。週に3、4回のラーメンとか、やっぱりよくない
 で、そうなってくると、たばこだ。実のところ、きょうはまだ一本も吸っていない。たばこについてはしばらくの間「ガマンする」という意識を強く持たなければなかなかやめられないだろう。ただし、吉兆もある。最近、たばこがあんまりおいしく感じないのだ。このまま、ときどき吸いつつもおいしく感じなければ、するっとやめられるだろうと思う
 
 さて、こういうのは、ほんの一部。一部って何の一部かというと、まあタイトルにも掲げた東京脱出願望の一部だ。東京に生まれ育ち、東京が僕の故郷であるから、東京のベンリさ、人の多さ、いざこざや不愉快な出来事、水や空気の悪さには慣れている。誤解を招く表現だが、故郷であるからこそそういう東京に愛着もないではない。だけれども、年を追うにつれて、こういう生活環境は自分には合っていないのではないかという気持ちも強くなっている
 そんな昨今、ハワイに2度行ったり、沖縄がブームになっていたりなんかしていて、自分的にも島への想いが募っていて、まだことしは八丈島と佐渡にしか島には出かけていないけれど、とにかく島に行きたい、島に住みたいという気持ちを自然とさらに強くする環境の中で暮らしている。そしてこの春から日本テレビで始まった「瑠璃の島」が、僕の気持ちを決定的にしつつあるところ。もちろんこれはあくまでもドラマだし、こういう状況を求めているというわけではないけれど、これに類する暮らしには憧れている
 モーヲタをやめて9ヵ月。モーヲタ時代の自分もそのときなりには本当の自分であったのだろうけれど、こうしてヲタをやめて自分をもう一度見つめなおしてみると、あのときの自分よりいまの自分のほうがもっと本当の自分であるように感じることができている。現にヲタをつづけている友人や知り合いには悪いけれど、僕自身は、ヲタをやめて本当に、本当によかったと、毎日繰り返し思っている。更生した、そんな実感も、正直に言うと、ある
 いま僕が思うことは、「アイドルは 遠きにありて 思うもの」ということだ。ちょっと気になったかわいい子がいる。テレビや雑誌で見て、かわいいなと思う。その子が出る番組を楽しみに待って、見る。まあその子が歌手ならば、ときどきコンサートに出かけるのもいいだろう。でも、そこまで。ある種の気持ちを持ってそれ以上突っ込むと、跳ね返される*1
 いやこんなことは、僕が実際にモーヲタだった頃からすでにわかっていた。でもこれもまた、頭ではわかっていたけれど、自分自身の実生活にその考えを適用することはなかなかできなかった。モーヲタ生活を潔くやめてようやく、それができるようになった。ヲタ生活を楽しんでいる人は、べつにいい。でもヲタ生活で苦しんでいる人は、一刻も早くやめるべきだと僕は思うし、「やめろ」ということをすすめられるものならすすめたいとも思う
 僕自身は、テレビで見るかわいい子はテレビの向こうの存在だとすでに割り切っている。彼女たちがいる世界は、裏をそれなりに知れば知るほどイヤな世界。僕自身はその世界に、行きたくない。その世界の彼女たちを自分が暮らす世界の中へ呼び込むことも、いまはしたくない
 だいたい僕は、彼女たちのことなんか全然知らない。そりゃそうだろう。僕はかつて結婚していて、ほぼ3年の結婚生活だったけれど、ほぼ3年間一緒に暮らしていてもその人が本当にどんな人で、どんなことをどういうふうに考える人なのかということが、わからなかった。もちろんわかった部分もあったけれど、それは全体から見ればけっして多くはなかったろう。わかったと思えたことはあっても、ふと振り返って考えれば、それは僕がそう思いたいだけだったということは普通に多かった。これをテレビの向こうやステージの上にいる姿しか見えない彼女たちに当てはめてみるならば、僕は彼女たちのことをもうほとんど何も知らないと断言できる。彼女はこういう人だからというのは、きっとそれは僕が彼女という人をそう思いたいだけだったんだろうと、いまは素直に思う。あとはまあパブリックイメージか
 でもまあそれはそれでいいんだろう。アイドルってのは、見ている側がその人なりの勝手な考えを妄想のように押し付けて楽しむためのサービス業だ。パブリックイメージという言葉を使ったが、そのパブリックイメージを見る側がプライベートイメージに変換させられるベンリな存在である。もし僕があるアイドルと実際に知り合って友達づきあいなりなんなりをしてみたら、自分が勝手に築き上げた妄想の像との大きなギャップに、日々悩むことになっただろう。まあこれはあくまでも僕自身のことであって、あなたたちのことは、知らない
 繰り返しになるけれど、アイドルヲタ生活を楽しんでいる友人は、そのままつづけていってもべつにかまわないだろうと思う。でも楽しめない人、苦しんでいる30代の友達は、一刻も早くやめたほうがいい、やめるべきだと僕は思う。
 なんか話が全然それたな。 (19:49)
 

*1:いわゆるある程度マスなアイドルのことです。テレビに出たりしないようなB級・C級アイドルのことはよくわかりません