石の時間

 Instagramである方の写真にコメントを書いていて、ふと思った。
 その写真では、石畳の上に昆虫の羽が二枚、静かに横たわっている。昆虫の体の本体はそこにはなく、まわりにもなく、ただただ端っこが破れた二枚の羽だけが、つるつるに磨かれた石畳の上に横たわっているんだ。
 虫の羽も気になるけれど、石畳の石のほうも気になる。つるつるに磨いたのは長い年月の風濤や、自動車のタイヤや、人間たちの靴の裏。
 磨かれてつるつるになる前には、それぞれの石はもう少し大きかったはず。磨かれて、ちいさくなって、つるつるになった。ちいさくなった部分にもともとあった容積は、消えてなくなってしまったわけではなくて、それはなんというか質量保存の法則からしてもありえないことだろうけれども、ともかく超微細な粒子に変身して飛び散ったか、そのあたりに積もっているか、雨に流されたか、どれかはしたはずだろう。
 そうしてその中のいくつぶかの石の粒子は、僕らの口の中にも飛び込んできているはずだと思った。だとすると、考えてみれば不思議なことで、そのとき僕は石の時間を食べたのである。体内にカッチリと格納したのである。
 石。いや石だけじゃなくて、すべての食べ物も、飲み物も、空気でさえも、それぞれの時間を持っているはず。だから僕らの体内には、いろんな時間が日々蓄積されていっているのだなって。
 残念ながら、それで僕らの僕ら自身の時間は長くならない。たぶん。検証してないので断定的には言えないのだけど、たぶんならない。他の生物や静物の中に込められていた時間は、いったいどこへ消えてなくなってしまったんだろう。
 実はなくなってはいないんだろうなと思うんだよね。ただ、それらの時間は不純物を取り除かれて限りなくちいさく圧縮されているのだと思う。たとえば、人間の一生80年が、1兆6000億分の0コンマ08秒とか、あるいはもっととか、それくらいは圧縮されているんだろう。でないとこの地球は時間でパンクしてしまうから。
 で、僕らが一生のうちに体内へ取り込む他の時間なんてのは、ほんとほんと微々たるもので、それが僕らの人生を効果的に長く伸ばしてくれることはないんだろうなって、思うんだよね、最近。
 
 (2:08)