南京の基督

 ここ最近、うちのバルコニーから夕刻の富士山のシルエットが美しい。暗くなり始める前、空を見上げたら、細長い雲が幾筋にも、もうずいぶんと高くなっている。まだ昼間は暑いけれども、秋は確実に近づいているのだと。
 週末、仕事の手すきにKindleでさくりと読んだのが、「南京の基督」だった。芥川のなつかしい小品である。読みながら、こういうものを書きたいと思っていた昔を思い出した。あの頃、芥川のこれだけではなく、古今のどんな名作を読んでも、こういうものをいつか書きたいともだえていた。だから「南京の基督」を読んで、なつかしかったのはこの作品自体のことというより、あの昔のあの頃の自分自身のことだったのかもしれない。
 それから四半世紀に及ぶ歳月が流れて、そのなつかしさをいま思い出したのは、いまの僕にとって、どういう意味があるのだろう。夕刻の富士は、きょうは西の山並みの上に濃灰色の雲がかかって見えなかった。西を眺めると自然の貴さと夜の向こうにまた新しい一日の始まりを予感して安堵するいまの僕は、西を見ても東を見ても焦りしか覚えなかったあの頃の僕に、悟りきった分別を超えた嫉妬に近い何かをぼんやりと思うのだ。
 
 (18:35)