蜘蛛を殺せない人

 春から秋まで、わが家は昼間、たいてい窓を開けっ放しにしている。気持ちのよい風がいっぱい入ってくるし、まあ、虫も入ってくる。
 ハエやカはもちろんのこと、クモもよくいらっしゃる。
 さて、ワタクシ、ハエやカは普通に殺せるんだけども、なぜかクモは殺せない。だからいつも生け捕りにして、ベランダから逃がしている。
 なぜ殺せないのかと聞かれても、べつにこれといった理由はない。クモを殺さないといってもハエやカは殺すんだから、ヒューマニズムだとか、動物愛護だとか、そういう理由でもないんだろう。虫といえば、ハチノコとかイナゴとかも好きだし。食べるの。
 ごく小さなクモと大きめのハエを比べたら、おそらくハエのほうが大きい。殺した=つぶしたときの感触も、小さいクモより大きいハエのほうがはるかに生々しいのだと思う。でも、大きなハエは殺せて、小さなクモは殺せない。不思議なものだ。
 ここまでくると、生理的にという当たり障りのない理由で片づけてしまうか、あるいは自分はクモの生まれ変わりだとか、はたまたクモの生まれ変わりではないものの前世でクモに必要以上に縁のある生き物だったか、まあそういった方面に考えなければいけないのかもしれない。それだと、ちょっとワクワクしない。
 ただ、ひとつだけ思い当たることもないではない。それはたぶん、幼少の頃に見た、とあるテレビ番組の話。
 その番組では、どこかの原住民が、クモを神の使者として崇めていた。といっても幼少時に見たテレビの話だから、ディテールはもはや覚えていない。神の使者としてというのは、そういうシチュエーションならきっとそういうことだろうという、あくまで後づけの解釈。実際は、本当に神の使者だったのか、益虫としてありがたがっていたのか、あるいは逆に実は忌み嫌っていたのか、もしかしたら単なる迷惑モノと考えていたのかもしれない。ともかくその原住民は、クモを特別な存在として遇していた。それは間違いないと思う。わざわざテレビでやってたんだから。
 で、これも細かいことは覚えていないんだけれど、クモを祭る儀式のようなもの模様も放映されていた。なんか木々を組んで、火を焚いて、奇声を上げていた。そんな感じ。
 虫というものは、当たり前だけどものすごくガキの頃から身近にいっぱいいた。だけども僕はたぶんそのテレビで初めて、特別扱いされている虫というものを見たんだろう。そのときの衝撃が、30年以上たったいまでも意識のどこかに残っていて、部屋でクモを見かけるたびに、僕を身構えさせ、つぶすのではなく生け捕りという行動に導くのかもしれない。これもあまりワクワクしない考えだけどね。
 そう考えてみると、な〜んだ、とも思う。もしそのときに原住民たちが祭っていたのがクモでなくゴキブリだったら、僕はゴキブリをクモと同じように生け捕りにして逃がす人間になってたのか。
 ……ん、待てよ、と僕は思うのだった。すでにいま僕は、やはり開けっ放しの窓から入ってきた(のか、もともとうちの中で繁殖したのかはわからないけれど)ゴキブリを、クモと同じように殺さず、生け捕りにして逃がしている。もしかして僕のような人間の存在が、あのゴを何億年というとんでもない長期にわたって永らえさせているのかもしれないな。
 
 (19:33)