京大の女子

 きのうとは違ってきょうの京都は本格的な雨。しかも気温がけっこう高くて、歩いていると汗をかいた。
 朝、宿を出て、付近の町を軽く散策し、方広寺と豊国神社に行った。どしゃ降り。先日の「もちものバトン」にも登場したバッグがびしょ濡れになった。キャンバス生地なのであまりひどい雨だと中に染みてくる。本の表紙がへなへなになってた。
方広寺の梵鐘 方広寺の「国家安康 君臣豊楽」の鐘はかなりバカでかい*1。鐘はバカでかいが問題の銘はかなり小さい。右の写真、鐘の表面に白い汚れのようなものが見えるが、それが問題の銘文である。
 方広寺には江戸中期まで高さ約18mの大仏があった。オリジナルを建立したのは秀吉。ところが完成の翌年に地震で大破した。その後、秀頼が再建したが、これも江戸後期の1798年に落雷で燃えてしまったそうだ。18mというのは現存する奈良東大寺の大仏(約14.7m)よりも大きく、それを包む大仏殿は秀吉時代の大坂城天守閣よりもはるかに大きかったという。残っていたらどんなものだったろうか。見てみたかった。
 
 ちょうどこの方広寺・豊国神社訪問の時間帯がいちばん強い降りだった。そのまま周囲のどこかの寺へ歩いていくのもしんどいくらい降っていたので、どうしようかと考えて、せっかくだから京のenのおかみさん・kanaさんがやっているアンティークショップをのぞいてみようと思った。東大路通りに戻り、馬町のバス停で北に向かう市バスを待った。
 僕がバス停に着いてすぐくらいに、20歳前後の女の子が一人やってきた。目がまるまると大きく、エキゾチックな顔立ちのかわいい子だった。上は黒いハーフコート、下は黒いジーンズで、黒いスニーカーを履いていた。よっぽど黒が好きなんだろうか。
 他方面行きのバスを2台やり過ごし、僕が乗る方面のバスは3台目にやってきた。その子も同じ市バスに乗った。バスの中ではライムカラーのgigabeatで何か聴いていた。へぇiPodじゃないんだ、と思った。この路線に乗るということは京大の学生かしらんと思ったら、案の定、京大正門前で降りていった。
 僕はそのひとつ先の百万遍で降りた。百万遍東大路通りと今出川通りがクロスする交差点で、この周囲一帯には京大があるほか、京都の街で行われる駅伝の通り道としても有名。ちょうどあしたが全国女子駅伝で、付近では交通規制などの看板の準備がされていた。ちなみに百万遍という名前は、交差点のすぐそばにある知恩寺の寺号からきている*2。この知恩寺は毎月15日の手作り市が全国的に知られている。なお祇園の近くにある日本一大きな三門や男坂・女坂で知られる知恩院とは別。
 百万遍の交差点から今出川通りを東へ向かう。途中、今出川から左斜めにそれていく志賀越え道(国境の山を越えて近江=滋賀県に向かう道)に入り、15分ほど歩いて11時頃に北白川の「Golden Years Antique」に着いた。でもまだ開いてなかった(笑)。Openは11時かと思っていたが、どうやら12時だったらしい。で、すぐ近くにある京のenのほうにうかがった。もうお客さんはみんなはけていた。玄関を上がったところの部屋(行ったことがある人はわかるでしょう)で、コーヒーをご馳走になりつつ、kanaさんと30分ほど世間話をした。kanaさん初の東京旅行計画の話で盛り上がった。
 お昼頃にお暇して、kanaさんご推奨の近所の定食屋「大銀」ですき焼きを食べた。テレビから、きょう野洲の街で高校サッカーの優勝パレードが行われたというニュースが流れていた。食後、京大構内なども通りつつ出町柳駅まで30分ほど歩いた。
 で、出町柳から京阪電車に乗って、淀へ向かった。えー、まあ1月2月の土日の京都にきたら、寄るでしょ、ここ(笑)。そう淀といえば淀城……じゃなくて京都競馬場。1時半ちょい過ぎに着いて、9、10、11レースを遊んだ。やや当たった。あしたは日経新春杯か。まああしたは……こないだろう(笑)。
淀城天守台の石垣と京阪淀駅 メインレース・淀短距離Sが終わって競馬場を出た。京阪電車に乗る前に、淀駅のすぐ裏手にある淀城の址を少し散歩した。建物はもういっさいないが、天守台(天守閣が建っていたところ)などの石垣が残っている(ただし残念なことに天守台の中は立ち入り禁止。写真は天守台の石垣と、その向こうに見える京阪の淀駅)。淀駅に戻り、京阪電車で大阪(淀屋橋)まできた。んで先ほど、心斎橋の東横インにチェックインした。携帯で“いん”と打つと候補のトップに「インリン」が出てくるのはなぜだ。
 
 (20:02)
 
 

*1:方広寺の鐘は、東大寺知恩院のものと並び日本三大名鐘に数えられるそうだが、三大名鐘はほかにもあるという説もある。まあ三大だの七大だのというのは概して難しいものだ

*2:いまから700年ほど昔の後醍醐天皇の時代、疫病が流行した。この寺の上人さまが天皇の勅命により宮中に7日間こもって100万回の念仏を唱えたら、なんと疫病が治まった。そこで後醍醐天皇が「百万遍」の寺号をくださったのだそうな