Fine Emotion

 下の日記で書いたように、いまは週に5日か6日(最近はたいてい週6日)は酒を呑んでいるわけだけれど、重要なポイントは、僕はべつに酒を呑まなくても日々を過ごせるということだ。
 つまり、なんだかんだで酒は好きだから呑んでいるのであって、アル中ではないのである。
 
 アル中だと、たぶん呑まずにはいられないんだろう。でも僕はいま、(中毒的な意味で)呑まずにいられないということはない。(気持ち的に「呑まずにはいられねぇよ」ってなことはあるけれどw)
 だから、休肝日の意識云々と関係なく、全然呑まずに一日を過ごしてしまうことだってよくある。
 10年ほど前までの一時期に毎日呑みすぎて内臓をおかしくしたことがあったけど、たぶんその頃は、中毒的に呑んでいた部分があったんだと思う。当時まだ会社勤めをしていた僕は、会社の昼休みというか食事時間というかそういうときにも酒を呑んでいたし。あの頃に限っては、ややアル中的に呑まずにはいられなかったというところもあったのだろう(これも、あくまで中毒的にという意味で)。
 で、そのときカラダをちょっと壊したあとは、しばらく酒をあまり呑まなくなった。酒はずっと相変わらず好きだったんだけれど、内臓の調子が回復するまでは、ムリして呑むことはしなかった。これも結局、「呑まなくても日々を過ごせる」という僕の性質が影響していた部分なのだろう。
 好きだから、無茶はせず、酒のうまさを心底味わって楽しむ。これは酒に限らず、あらゆる趣味にも共通するところかもしれない。
 
 つまりこういうことだ。ムリをしたって続かない。むしろそれ以前に、ムリや無茶をしているときは、ムリや無茶をしていることによる自分自身に対しての自己愛や弁解などが生まれてくるから、その対象のモノの本当の味や良さってものを、実はわかっていないのかもしれない。
 100%のめり込んでしまうのは、自分のペースではなく、相手のペースにあるということ。「酒に呑まれる」というのは、まさにそういうことなんだろう。そうではなくて、一歩引いたところに自分の身を置くことで、その対象のことをよりフラットに見ることができ、かつ自分自身も自然で素直な状態でいられる。それでも「好き」とか「楽しい」とか、自然に、なんのムリもなく感じられるものが、自分にとっていちばん向いているものなのだろう……と、最近の僕は、そんなふうに感じている。
 自分のペースがなかったら、恋愛も趣味もありゃしない。
 
 少なくとも、ムリや無茶をしていると、幸せには見えないだろうな。
 で、幸せに見えるなら、それはムリや無茶をしていないということだろう。
 (「ムリ」「無茶」と、「努力」「がんばり」は別のものだと思う。ある目標や夢に向かって努力しがんばっている人は、幸せに見えるものなので)
 
 僕は、友達が前者のように見えたらその人がやっているムリや無茶をやめさせたいし、後者に見えたら進んで応援していきたい。
 
 (20:45)