「スローモーション」

 何かをしたときに、それをしてよかったと思えるかどうかは重要なことだ。
 それほど腹がへっているわけでもなく、けれど何かちょっとは食べたいなと思って、近所のラーメン屋「べらんめえ」に出かけた。そんなに空腹ではないので、いちおう悩んだ。もっと軽いものにしようかなとか。マルエツでパンを買ってくるんでもよかった。でも、結局表へ出たらそのまま足は「べらんめえ」のほうに向いた
 以前ここにも書いたことはあるが、それほど好きなラーメン屋でもなく、ただときどき食べたくなる系で、1、2ヵ月に1度くらいくる程度。今月はもちろんきていない。先月か先々月に、夜中やすと行った記憶はある
 店に入ってチャーシューメンを注文した。ラジオでは、長野県についての話をしていた。8つの県に接しているとか、その昔はもっと多くて10州(10の旧国)に接していたとか。善光寺平や佐久平など農作物が豊富に取れる盆地をいくつも抱えている話、日本の山岳・登山文化のメッカである話などなどがつづき、途中で(リスナーのリクエストだろうか)中森明菜の「スローモーション」が流れてきた。ああ、マジなつかしい、と思った。この曲、いったいいつ頃から聴いていないだろう。もしかしたらやすの車で来生たかおバージョンのを聴いたかもしれないが、まだ初々しい中森明菜の声で聴いたのは本当にひさしぶりだった。たぶん10年以上は耳にしていないだろう
 チャーシューメンは、やっぱりちょっと多かった。いや多かったというより、重かった。おなかがそれほどへっていないという事情もあるけれど、ここ数日はどうも胃が疲れているみたいで、そんなときにきのうは大もんじゃ大会なんぞをやったりもしたので、今宵のチャーシューメンは多く感じた。でもこのタイミングでこの店にきたことで、中森明菜の「スローモーション」なんていう、いまでいえばレアな曲を耳にすることができたのが、ああ、よかったなと思った
 どんなことをしても、後悔とかしたくない。実際、僕は後悔なんてほとんどしない性格でもある。この性格が出来上がったのは、まあもともとの素地というのもあるんだろうが、1980年代の終わりから90年代の初め頃の一時期の影響もかなり大きい
 当時、わ とよく一緒に行動していた。で、この頃、たとえば何かをしようとしてできなかったとき、「ああ、これはいまやるべきことじゃなかったんだな」「いまはやるなってことか」、あるいは何か思いもよらないことをしたときに「ああ、いまはこれをしろってことだったんだな」というような考え方を、二人の間でよくしていた
 こういうのはけっして運命論とか諦念とかそういう姿勢ではなくて、むしろその逆。常に最新の自分が常に自分の最先端であるということ、ここまで通ってきたすべての道のりがいまの自分をつくっていること、自分という人間は自分が経験するすべての時間の集合体、そして、表現がちょっと難しいのだが「自分は常にひとりの自分であること」。まあそんなようないろんな意味を含んでいる考え方だと思う。そして同時に、自分がしたことを後悔せず、常によかったと思うこと、どんなことでも自分には何かしらいい意味があるということ、そのときの自分にとってはそれが「すべきこと」だったということ……んー、うまく言えないな。自分のからだで自分なりに感じているものだからな。それを言葉にするのが僕の仕事といえば仕事だけれど(笑)。
 「あれをしなけりゃよかった」とか思うのはつまらないじゃない。あれをしたことによって、何かしら学んでいる部分もあるはず。たとえば競馬で大損したとすれば、競馬にこんなにつぎ込んじゃいかんよなという反省にもなる。彼女にいけないことを言った、待ち合わせの時間に遅れてしまった、仕事で失敗をしてしまった、酒を飲みすぎて頭痛になった、などなど、などなど。その日それをしたことで、僕は何かを学ぶわけだし、それをしなければ体験できなかった何かを体験できるわけだ
 もちろん僕は人間だから、学んだり気づいたりしたすべてのことをその後の人生の反省として生かしきれるというわけじゃない。逆にそれはそれで、すべてをシステマティックに生かしきれてしまったら人間じゃないようにも思う。人間だからいろんなことがあるし、何かいけないことがあって反省してもまたすぐ忘れたり、次の同じような機会に生かせなかったりもする。でもそれも、イイワケじゃないけど僕が人間だから。だから正確にいうなら、学ぶ・学ばない、生かす・生かさないが重要なんじゃなくて、経験すること、これが重要なんだろうと思う。こういうふうに考えていれば、きっとすべての経験に、僕はこれからも感謝しつづけていけるだろう。 <中森明菜「スローモーション」/1982年>
 
    *    *    *
 
 古くからつきあいのある人なら、かつて僕がやっていたページに「印象の小匣」というコーナーがあったことをおぼえているだろう。「小匣」はよく読み方を聞かれたが、「こばこ」と読む。“パンドラの匣”なんて言葉があるけど、あの「はこ」だ
 このコーナーで、1997年頃からだろうか、毎日毎日音楽を一曲取り上げて、それについていろいろとつまらないことを書いていた。きょうみたいに長いことを書く日はめずらしく、数行、ひどいときには一行という日もけっこうあったが、長さはともかくまあカンタンにいうなら音楽日記という風情のコーナーだった。その音楽自体について書くこともあれば、その音楽を聴いたり感じたりすることによって思い浮かぶ何かを書き連ねることもあった。むしろ後者のほうが多かったか
 このコーナーは、見方によっては普通の日記コーナー以上にその時々の自分の気持ちや精神状態をあらわしていたのだと思う。いま読み返しても、そんな感じはする(実はまだウェブ上に残っている)。自分で言うのもなんだけれどそれなりにいいコーナーだったと思うので、このブログに復活させることにした。ただ当時のように毎日一曲選んで書くわけではなくて、時に気が向いたら、というペースだと思うけれど。 (21:58)