1月17日

 19回目の“あの日”だった。
 18年前のあの日のことを、いま思い出せば、もちろんいろいろ思い出すけれども、その個人体験をここに書いたってあまり意味はない。
 あの日も含めた、1995年のことを。いろいろと、ね。
 とにかく、大変な一年だった。
 この前テレビに上祐史浩が出ていたのを見て、ああ彼も歳をとったんだなぁ、と思った。
 
 人類がこの地上に生きる時間が長くなればなるほど、Anniversaryは必然的に増えていく。
 よいAnniversaryもあるし、よくないAnniversaryだって当然たくさんあって、そのいずれもが、どんどんどんどん増えていく。絶対数は、間違いなく。
 だけども、Anniversaryが生まれることと、それがいつまでも覚えられていることとは、まったく別の話だ。
 人間は、忘れる。個人も忘れるけれど、ある時代のある場所にいた人間の集合体も、覚えていることもあれば、忘れることもある。
 そして、記憶だけに頼って記録に残していなければ、人間の集合体が覚えていたはずのことも、いつしか忘れ去られるかもしれない。
 だからこそ、記録するというのは大事なことなのだと思う。
 
 そして、それでも忘れ去られる、いやそもそも集合体には記憶すらされない、個人の記憶というものがある。
 個人の記憶は、その個人自身が忘れてしまう場合もあるけれど、忘れずに覚え続けていたものは、その個人が死ぬまでは記憶として残り続ける。
 死んだ瞬間に、その記憶はこの世の中から失われる。
 
 失われるけれど、その個人の記憶からは、もしかしたら、いつまで経っても消えないといえるのかもしれない。
 ただ、その消えない記憶を、誰しもが、覗き見ることができないだけの話なのかもしれない。
 
 来年のきょうは、とうとう、20回目の1月17日がやってくる。
 
 (23:41)