「明日」

 夜中、2時半頃から少し小降りになっていた雨が、3時を過ぎてからまた強くなってきた。
 屋根や窓に当たる雨の音が、静かに、心地よく、聞こえる。
 ちゃんと数えていたわけではないけれど、きのうから、たぶん何十回も平原綾香の「明日」を聴いている。
 
 雨には、手前の音と、その向こうの音と、さらにその向こうの音がある。
 手前の音というのは、自分がいまいる場所の屋根や窓、自分がいま持っている傘、自分がいま着ているレインコートに当たる雨の音。その向こうの音というのは、自分がいまいる場所のすぐ向こうで降っていて、建物や、道や、花壇や、乗り物や、水面や、木々や、そういういろいろなものに当たる、あるいは当たっていると感じられる雨の音。さらにその向こうの音というのは、もっと大きく離れて、街や、海や、山に降っていることを感じることができる、雨の音。
 いま、部屋でかけている「明日」は、屋根や窓に当たる“手前の”雨の音のさらに手前で流れている。いちばん手前で流れているのに、そのメロディと歌声は、“さらにその向こうの”いちばん遠い雨の音のさらにその向こうから聞こえてくるよう。いま僕が聴いている雨の音のすべてを、いちばん手前といちばん向こうから、静かに包んでいるかのよう。すべての雨の音を包んで、すべての雨の存在感を、雨からかけはなれた雨とは異質のその音楽の中に、包み込んでいるかのよう。
 喜びも、悲しみも、せつなさも、むなしさも、後悔も、妬みも、呼吸も、脈の拍動も、すべてを雨の音とともに、包み込んでいるかのよう。
 少なくとも、2005年10月18日のまだ暗き時刻の自分には、そう、感じられた。 <平原綾香「明日」/2004年>
 
 (3:49)