那覇の話など

 旅には大きく分けて駆け足型と滞在型がある。まあ2泊までは駆け足型、最低3泊以上になると滞在型という感じだろうか(2泊だと現地でまるまるワンデイ過ごせるのは1日しかないので、やはり駆け足型といっていいだろう。3泊になると中2日だからそれなりに余裕も出てくるが)。もちろん駆け足型には日帰りやちょっと立ち寄っただけなど超短時間の旅行もあるし、滞在型には1週間、半月、1ヵ月なんてのもあるわけだが。
 前回(6月9〜15日)は鳩間島4泊+石垣島2泊で鳩間滞在型だったけど、今回は徳之島2泊+ヨロン1泊+那覇1泊+沖永良部1泊+国分1泊という駆け足型だった。まあこういうのもアリだろう。
 というより、こういう日程にしたのは理由がある。本来ならふぃちと別行動の期間でヨロンに2泊しようと思っていたところへ、5月に行った山羊料理屋にどうしても行きたくて強引に那覇1泊をぶち込んだ。なので那覇は夕方着・翌朝発という短時間行程だったわけ。目的が山羊料理屋だけだったので(笑)。まあ、与論−那覇間、那覇−沖永良部間の小さな飛行機にも乗りたかったので、山羊料理屋+小型飛行機が目的だったと言ってもいいかも。いずれにせよ、実はちょっと実験的な企画だったのである。
 その那覇の山羊料理屋「さかえ」では、カウンターに座って現地の人たちと話すのが超楽しい。今回も地元のおじさん、おじいさん、そして店のお姉さん(おばさん……)といろいろ話した。おいしい沖縄そばの話とか、泡盛の話とか、那覇新都心の話とか、そして6月24日と沖縄の日の翌日だっただけに戦争の話とか。まあいろいろ。なにしろ4時間もいたのでね。
 戦争の話は、やっぱりシビアで現実的。右隣に座ったおじさんは、うちの父親のひとつ年下だったか、昭和20年には6歳か7歳。那覇に住んでいたが、戦況が日増しに厳しくなり、一家で田舎へ逃げることになった。そのあたりでは南部に逃げた人が多く、おじさんの一家も最初は南部に行くはずだったが、なぜかおじさんの父親が「山原(やんばる)へ行こう」と言い出した。そのあとの歴史を知っている僕らには、その決断が彼らの人生にとって大英断だったことがすぐにわかる。南部に逃げていたら、もしかしたら一家全員生きていなかったかもしれない。山原に逃げたおかげで家族全員(別の場所へ借り出されていた家族を除く)無事だったとのこと。現実に沖縄戦を経験した人の話であるだけに、胸に響いた。
 そんなこんなで呑み始めから2時間ほどした頃だろうか、ひとりのおじさんが店に入ってきて、カウンターで僕の隣の隣に座った。客たちの反応が、なんか違う。右隣のおじさんが僕に耳打ち、「那覇市長だよ」。へぇ〜、那覇市長の翁長雄志(おなが・たけし)さんが呑みにきたんである。おじさんは知り合いらしく親しげに話し始め、僕も泡盛で乾杯したり、旅行で東京からきていてヨロンから寄ったことなどを話したりした。翁長さんは年に5、6度、2ヵ月に1度くらいのペースでこの店にくるらしい。まあ僕からすれば、運がよかったというか。
 この日は山羊刺しをサカナに石垣で気に入った請福を2合呑んで、そのあと右隣に座ったお兄さん(おじさんと呼ぶにはちょっと若いが僕よりは年上)に久米仙と牛刺しをごちそうしてもらった。いろいろ貴重な体験ができ、これも旅の醍醐味だ。この店は山羊料理がメインだけれど牛刺しもほんとうまい。うまいだけでなく、安くて量が多い。前回きたときは入荷していなかったので食べられなかった。やっと食べられてうれしかった(笑)。こんどはいつこられるだろうか。
 
 ところで今回も前回も、旅の写真はすべて携帯電話(auW21S)で撮影したものをその場で送信している。横300ピクセル程度のサイズなら、携帯のカメラでも十分きれいだ。たしかに細部はイマイチだし、ダイレクト送信だと明るさやコントラストなどの調整もできないけど、とりあえずの旅日記でそんな凝った画像も必要ないだろうから。
 もちろんデジタル一眼レフやコンパクトデジカメでも撮影しているが、さすがにその場で送信するわけにはいかない。ファイル容量がデカすぎるのもあるけど、それ以前にアウトドアにいちいちパソコンを持っていくわけないしね。携帯の電波はたいていの場所で入るので、こうしてその場で撮った写真を添えて日記を更新できる。日記という側面に加え、自分にとっては旅のメモでもある。携帯電話の機動性は、やっぱりすごいと改めて感じた。 (21:48)